第43回定例総会及び‘23年新春の集いを開催!
幹事長 馬場 由彦(昭52・法学)
梅雨の晴れ間となった7月2日(日)、第43回定例総会が行われた。コロナの関係で、昨年招待できなかった近隣稲門会、三田会の来賓もお迎えし、77名の賑やかな総会となった。プログラムは総会、講演会、懇親会の3部構成で、田中会長の挨拶に続き、議事の審議は3議案共、原案通り可決された。
第2部の講演会は昭和大学及び新潟薬科大学名誉教授の中谷一泰様(S38年理工卒)をお招きし、皆が最も心配な認知症をテーマに「認知症は治せる病の一歩手前、それまでは科学的事実に基づいてしっかり予防を」と題して講演頂いた。認知症の原因となる物質が脳に与える影響や、病状の推移などを詳しく説明頂いた。更に皆の最も関心の高い、認知症予防の為のポイントをご紹介頂いた。
第3部、乾杯の発声は出席者最長老の長谷川武男さん。続いて食事、歓談タイム、そしてお待ちかねの「クイズ大会」。難問正解の優勝卓より順番に、全員が景品を受け取った。懇親会の最後は校歌斉唱。現役の応援部員・宮下陽三さんのエールにより「紺碧の空」「都の西北」を大きな声で歌い上げた。
2年ぶりの新春の集い
好天に恵まれた2月5日、「新春の集い」が開催され、64名が集った。田中会長の挨拶に続き副会長の井内康文氏より「した誤報、された誤報」と題した講演が行われた。井内さんは共同通信社時代の経験を元に、誤報に的を絞って話をされ、大変興味深かった。
乾杯の発声は長妻名誉会長にお願いした。ご自分で栽培したブドウを使った、お手製の白ワインをご提供頂き盛大に乾杯した。柏名物のクイズ大会では、いつもの通り参加者全員が景品を受け取った。今回は田中会長自らの指揮のもと「都の西北」を全員で斉唱した。
大隈重信候と綾子夫人銅像
キャンパス中央の重信総長の角帽、ガウン姿の銅像=1932(昭和7)年建立=は全5体あるうちの三代目で一番有名。しかし賢夫人・綾子像が大隈庭園の奥まった小高い丘に大礼袴姿でひっそりと佇むのを知る人は少ない。大学HPの「校内案内図」にはない。この銅像はキャンパス唯一の女性像で、大学創立45周年の昭和2年、嗣子(しし)大隈信常氏より寄贈・建立された。▼なぜ夫妻の像が5年の歳月を置き、100m以上も離れて向き合う形で立っているのか。1916(大正5)年、当時の天野為之学長は、芝公園に建立された衣冠束帯姿の重信像(戦時中に金属供出。現存せず)に合わせて校庭に綾子像を立てようとした。▼当時、大学は女人禁制で男尊女卑思想が強かった。教授陣が猛反対。「早稲田騒動」に発展、建立計画は頓挫。このため後立の重信像の顔は左に少し向き綾子像を凝視とか…。
井内 康文(S40・政経)
宇佐見 房司 (S37・商)
昭和30年代の初めの入学したての頃、好奇心から一寸覗いてみたことはあったが、本格的に見学したのは今回が初めてであった。
一巡、多くの感慨を覚えた。坪内逍遥博士が古稀(70歳)に達したことを記念して、昭和3年に建てられたこの博物館については、まず16世紀のイギリスの劇場を模して建てられたという正面の張り出し舞台のある外観に、魅せられた。
中の展示物の珍しいことは無論であるが、その保持する国内外の演劇・映像関係資料の膨大なコレクションは、対象が瞬間芸術であるだけに、この博物館の存在は極めて貴重であると思った。
こうした展示・保存機能に加えて、劇場機能として正面の舞台で演じられる種々の催物も、その都度多くの観客を集め感銘を与えてきているのではなかろうか。ここで、シェイクスピア劇を、是非一度観てみたい。
前川 晃子(S38・文)
會津八一は、歌人、書家、そして考古学の研究者として著名で、文学部教授を務めた。この記念博物館は、大隈候銅像があるキャンパスのメインストリートに面した2号館。東洋美術、考古学を主要な対象領域として、2万点を収蔵している。筆者の在学時は図書館で、1998年に會津八一記念博物館となった。
石段を登り、記念館に入館して展示室に入ると、まず目を引くのが、横山大観、下村観山による「明暗」と題された、雲海から昇らんとする旭日の大作品である。筆者が訪れた10月は、2階の常設展示会場は閉鎖されており、1階は、「早稲田大学を訪れた旧石器人―校内遺跡出土資料から」と銘打った展示で、細かい尖頭石斧が多数、陳列されていた。早大の各キャンパスには校地内遺跡があり、それらからの出土品がここに収蔵されているようだ。“旧石器人が早稲田大学を訪れていた”という表現に合点がいった。
筆者在学時に学生サークル、新聞会が発行していた「早稲田大学新聞」の題辞が、會津八一の柔らかな書体であったことを記憶している。受付の女性にそれは今も変わらぬか尋ねてみたら、「今はウェブの時代ですから、もう紙のメディアはどうでしょうか・・・」との返答に、50年の歳月を感じて、事実を確かめるのはあきらめた。外は秋晴れ。見学の中国人学生の一団が大隈候銅像のところで説明を受けていた。将来、彼らの中から幾人かの早大生が誕生するのであろうか。
山下 洋輔 (H14・教育)
早稲田大学歴史館は、正門のすぐ右手の1号館(旧法学部館)に設置されています。現在、総合案内所や入試センターのある建物です。入口の円柱が、歴史を語っています。この建物の建設(1935年竣工)にあたり、明治期に正門となっていた門柱を加工したものこと。戦火に耐え、大学草創期の息吹を今日に伝えるこの円柱は、「歴史を明日に伝える」早稲田大学歴史館の象徴となっている、と記されています。
館内は常設展示3エリア(「久遠の理想」「進取の精神」「聳ゆる甍」)と企画展示ルーム、映像プログラムを視聴できるシアタールームにより構成されます。建学の精神と建学に貢献した人々の尽力、積み重ねてきた文化的・人的資産だけでなく、教育や研究、グローバル化、学生生活、文化・スポーツなどの現在も紹介し、時代を超えた「早稲田らしさ」を発信していくことが目指されています。
早稲田大学の歴史は、日本のみならず近隣諸国の近現代史と言っても過言ではありません。今年6/15-7/11には、特別展「杉原千畝手記」特別公開があり、柏稲門会からも多くの先輩方が見学されたとお聞きしています。私が訪問した時には、企画展「フクちゃん ワセダダイガクノ巻」開催中でした。早慶戦の応援での「フクちゃん」の活躍ぶりと応援部約80年の歩みが、関連資料や写真を交えながら紹介されています。
皆様も、ぜひ、お運びください。
安藤 達夫(S48・理工)
1964年の東京五輪で早稲田記念会堂はフェンシングの会場になりました。旧記念会堂の舞台の位置あたりに2019年に建てられたのがこのミュージアムです。歴代の体育会とスポーツ選手の活躍が、記録写真、ユニホーム、用具、賞状、優勝杯などで紹介されています。
時々更新されますので何度行っても見飽きません。奥のビデオコーナーでは月替わりで体育会や選手の活躍ぶりの映像が流されていて、先日も歴代ラグビーチームの名場面につい足を止めて見入ってしまいした。
日本の五輪金メダル第一号は当時まだ学生だった織田幹雄先生(後に体育局教授)が1928年のアムステルダム五輪で獲得したもの。また小学校の国語教科書にも載った早稲田スポーツの感動話は、①ベルリン五輪(1936年)での学友西田と大江(慶応)の「友情のメダル」と、②1957年春の隅田川での早慶対抗「嵐のボートレース」です(①の友情のメダルは最近ここに寄贈されたそうです)。私自身は1960年秋の神宮球場での早慶6連戦に感動して早稲田に憧れました。
早稲田スポーツの感動と偉業と魅力がたくさん詰まった新名所です。御家族や学内外の皆さんとも御一緒にどうぞ。
向山 嘉幸(S44・政経)
当ミュージアムは早稲田大学と本庄市が共同で2020年に開設しました。大久保山、浅見山丘陵の緑に囲まれた自然環境と多様な遺跡や文化財に囲まれた一帯を「本庄早稲田の杜」とし、地域文化の拠点と位置付けています。ミュージアムの内部は早稲田大学展示室と本庄市展示室に分かれています。本庄展示室は市内の古墳から出土した埴輪を展示する「埴輪の世界」と今からおよそ2万年前に始まる本庄の歴史を考古資料と映像、年表で辿る「本庄の歩み」に分かれています。笑った表情をした盾を持つ笑顔の人物埴輪や矢を入れて携帯する為の靫(ゆぎ)型など珍しい埴輪が展示されています。今年度は地域の「古墳と副葬品展」、「埴輪づくりワークショップ」などを実施。
早稲田展示室では、大学が所蔵する500万点以上の美術品、書画、博物資料、図書資料、映像資料など、これらの文化資源の公開と活用に取り組んでいます。こうした貴重な文化財を中心とした企画展示として、今年度は「會津八一と瓦の蒐集展」、「エジプト文化展」などを実施しました。大学からはそれらのテーマの専門講師を招き講演会を行い、好評を博しました。
JR上越・北陸新幹線、本庄早稲田駅南口から徒歩3分、関越自動車道、本庄児玉ICから5分の交通便利な処です。是非一度見学をお勧めします。
永見 忠士(S40・商)
2023年9月28日午後7時、大隈講堂において早稲田大学国際文学館主催で「村上春樹presents白石加代子の怖いお話雨月物語」が催された。(解説)ロバート・キャンベル、(司会)坂本美雨(坂本龍一の娘)という豪華メンバーであった。幸いチケットが手に入り出席した。会場は満席、高齢者夫婦が多く、上質の朗読会という雰囲気であった。朗読会の開催は、村上春樹のライブラリー活動のテーマで、設立当初から続けているイベントであるが、今回の朗読会に来て、当文学館は関係者・聴衆から存在を認められ、それなりの文学情報発信源になっていると感じた。
早稲田大学国際文学館は、2021年10月1日に開館した。場所は早稲田大学構内、演劇博物館の横、4号館を隅研吾によってリノベーションされて完成した。当館が村上春樹ライブラリーといわれる由縁は、彼の全作品・愛用品等を寄託・寄贈を受けているからである。当会館に来れば、村上春樹の世界にどっぷりと浸かることができる。当館はこの「村上作品」に加えて「国際文学」「翻訳文学」の研究に貢献するという3つの柱を持っている。モットーは、「物語を拓こう、心を語ろう」である。
建物の特徴は、正面から右横に流れる「木のトンネル」である。村上春樹の文学に時々登場する別の時空をつなぐトンネルを翻訳して表現している。コンクリートの固い強固な壁にかわり、柔らかい木材によって人を囲み夢を育てるトンネルをこれは表現している。
館内を見れば、入ってすぐに当館を象徴する「階段本棚」がある。左右に本が並び訪問者は、階段に座って本を読むことができる。さらに階段は、イベントの観客席になり,講義の聴衆席になる。プロジェクター等完備しており、有効活用ができる設計になっている。地下には村上春樹が大学生の時、喫茶店を開業したということから、大学生が運営するカフェ「オレンジキャット」がある。このように村上春樹の世界が建物の中にちらばっているのでそれを探すのも一興である。
なお、当館建設の際、4号館改築費用12億円をユニクロを展開するファーストリテイリングの柳井正社長が全額寄付をした。早稲田大学国際文学館(通称村上春樹ライブラリー)は、今後の運営並びに各種研究・事業を継続的に展開するため「村上春樹ライブラリー募金」を実施して、今なお厚い支援を望んでいる。
会員近況
「近況報告???」
関 敏明(S48・商)
3年前70歳で仕事から解放され、有り余る時間をいかに過ごそうかと考えを巡らせていたところ、新型コロナの流行で自粛生活を強いられることになりました。その結果、小生は3つのことに巡り合えました。
- 通っていたスポーツジムを退会し、運動不足を解消するため毎月数回ゴルフをラウンドすることにしました。柏稲魂会をはじめ参加するゴルフ会は8つとなり、交友関係が大きく広がりました。
- これまで剪定をお願いしていた植木屋さんに初歩的な剪定術を教えていただき、ユーチューブも参考にしながら庭の植木剪定を始めました。そのために3mほどの梯子をネットで購入し落ちないよう注意しながらチョキチョキやってます。植木屋代10万円の節約、体幹訓練、時間つぶしに最適です。
- 外飲みが激減したので料理に挑戦しました。朝のおすすめは「バナナ餅」、切餅を1㎝角に切りフライパンにのせ焼きながらバターと輪切りにしたバナナを加えて柔らかくなったらシナモンをふり完成。夜は「牡蛎とマッシュルームのアヒージョ」、白ワインとピッタリで凝ってます。一口サイズの野菜やむきエビ、タコを追加してもOKです。
以上、どうでもよい近況報告でした。
「女子学生亡国論」を唱えた教授
前川 晃子 (S38・文)
そのころ(1959年)、私は学部1年生。サークル活動で、早稲田大学新聞会に所属していた。新聞会は、週一回4ページの学内新聞を発行するサークルだった。(入部するのに筆記と面接の上級生によるテストが行われた!入部してみたら、女子は私一人。)当時の部室は大隈庭園へ行く途中にある、かつて大隈候の馬小屋だったという独立の建物。中に入ると靴の下で床板がきしむような古い建造物だった。
入部して間もなく研究室訪問というテーマで、私は文学部の暉峻康隆(てるおかやすたか)先生を訪問するよう先輩に命じられた。先生の研究室に入室して自己紹介や訪問の趣旨を述べ終ると、恰幅のよい先生はじろりと私を一瞥、「私は早稲田に女子学生が増えるのを苦々しく思っています」みたいなことをおっしゃり、「なぜですか?」も言えないくらい新米記者を圧倒、萎縮させた。女子学生は卒業すると、学んだことを社会に還元せず、家庭に入ってしまう、結局、男子学生の学習の機会を奪うだけ、そんなお話だったと記憶する。その訪問記事を紙面用にどうまとめたかは、全く覚えていないが、間もなく雑誌『婦人公論』が暉峻先生の「女子学生亡国論」を掲載した。
それは、もはや60年近くも昔のこと。世界における男女のジェンダーギャップは未だに下位を低迷している日本ではあるが、現在に至るまで女子学生たちは社会に羽ばたいてきた。
大学の資料にもよれば、2022年の早稲田大学・学部学生の39%が女子学生。しかし、日本国は滅亡していない。暉峻先生、よかったですねえ。
「柏稲俳句会」は楽しい句作の場です
世話係 有居 晃(S40・理工)
2011年に宇佐見房司さんの御指導の下に始まり現在に至っています。
会員は現在14名で、春夏秋冬の年4回開催し大いに楽しんでいます。
俳句には触れたことが無いとおっしゃる方は、本を買って読む手も有りますが、まずはメディアから入られたら如何でしょうか。テレビではNHK俳句やTBSの「プレバト」など、新聞の俳句欄、フェイスブックにもいくつかの俳句会が出ています。俳句に触れてみて興味が湧いたら、「柏稲俳句会」の句会に参加してみませんか。句会では俳句の披露に伴うエピソードなど、毎回色々興味深いお話が聞けます。
ご参加をお待ちしています。
今年度の「散策の会」
世話係 粟村 頼子(S39・教育)
散策の会も継続してきた活動を2020年から3年間中止を余儀なくされました。2017年は江戸東京博物館。18年に早稲田大学歴史博物館・演劇博物館・完成間近のアリーナ。19年は六義園・東洋文庫などを訪ねました。
さて今年度は長らく休んでいたので足慣らしのつもりで比較的楽なコースをと考え、3〜4月頃に神田川クルーズを設定。日本橋下の船着き場から江戸城の石垣が残る日本橋川、お茶の水や秋葉原を流れる神田川、スカイツリーが見える隅田川をは90分かけて巡り日本橋に戻ります。
見慣れた東京をいつもと異なる低い視点から楽しんでください。
柏の歴史・こぼれ話 (11)
手賀沼南岸と南に流れ下る大津川沿いは豊かな生活環境に恵まれていたことから、縄文時代から各所に集落が営まれていた。戸張遺跡群もその一つで、弥生時代になると一番割遺跡には環濠集落が出現し、古墳時代になると前方後方墳が出現する。また、大津川への入り口に当たる大井には前方後円墳七基、円墳三三基から成る船戸古墳群が残されている。
中世になると大津川支流の地は千葉氏流れの相馬氏の領地となるが、奥州相馬に移ったことから中世城郭が水域に沿って立地するようになる。大井、戸張、増尾、名戸ヶ谷、藤心、高柳、酒井根から鎌ケ谷市の佐津間、栗野まで点在している。増尾城と幸谷城は大津川支流を挟んで造られており、水運を監視するかのような立地となっている。このころから板碑をつくる風習が関東を中心に広がってくる。板碑とは供養塔として使われる石碑の一種で50から70cmのものが多い。柏地域の板碑は大津川沿いで多く見られる。筑波山の黒雲母片岩が使われており、舟運によりこの地にもたらされたのである。江戸時代に駿河国田中藩の本多氏が一万石の飛領地として陣屋を置いたのが船戸と藤心であった。
久慈 勝男(S42・政経)
令和6年(2024年)の「新春のつどい」は2月4日(日)、「総会」は7月7日(日)、ともに会場はザ・クレストホテル柏で開催予定です。
時々、近隣稲門会からの「HPについて教えて欲しい」という問い合わせに対応していますが、サイトの評判も上々のようです。「Web版稲門会だより」には、文字数制限で誌面に掲載しきれなかった記事が全文掲載されています。(KN)