今回は「円筒分水」を訪れるときに車のナビの行き先に指定した柳戸の弘誓院(ぐぜいいん)の紹介です。
弘誓院の概要
弘誓院は、真言宗豊山派の寺院で、正式には蓬莱山弘誓院福万寺と号し、下総観音霊場三十三番の第三十三番札所です。九世紀はじめに行基が開山したと伝えられている名刹で、周辺地域では、むかしから「柳戸の観音様」として親しまれています。
また、大師堂は東葛印旛大師八十八ヶ所霊場八十三番で、毎年の送り大師の巡り寺になっています。送り大師については、こちらをご覧ください。「東葛印旛大師」
下総観音霊場三十三番
かつての下総国、今の千葉県北部に当たる地域の観音菩薩巡拝霊場で、番外札所を含めて34ヶ寺で霊場が構成されています。しかし、現在は、廃寺、無住なども多く、拝礼の対象である札所御本尊の観音像が行方不明のケースもあります。平成初期に柏市教育委員会が霊場復興を試みましたが、予算や機運の面で話は立ち消えとなりました。
国道282号から細い道を少し行った谷津(雑木林や台地に囲まれた船底に当たる谷間、弘誓院の建つ谷津は観音谷津と呼ばれています)に建てられています。
正面に本殿、向かって左側に大師堂と延命地蔵堂、左奥には弁天池があり弁財天が祀られています。また、道路の向かいには鐘楼がありますが、足腰の弱い私は長くて急な階段 (五七段)は遠慮させていただきました。(笑)
弘誓院の文化財
弘誓院には、3つの文化財があります。
御本尊・聖観世音菩薩坐像(千葉県有形文化財)
鎌倉時代(一三世紀後半)。本像は曼荼羅に描かれた聖観音の形に一致する密教系の観音像。左手に蓮華をもち、右手でその華を開く勢を示し、結跏趺坐する。
平安時代後期以来の伝統的割矧技法をもつが、引き締まった相貌や彫りの深い衣文の彫法等に鎌倉時代の作風を示す。
作者系統は明らかでないが、一三世紀前半から半ばにかけて活躍した仏師定慶の作風の影響がうかがわれる。
大きな主材を使ったやや変則的な木取りや幅広い両肩や両脚部のつくりなどに地方性を示していると共に、迫力ある表現を生み出しており、鎌倉期の数少ない聖観音像として貴重である。(普段は秘仏のため拝観はできません。)(千葉県・柏市教育委員会)
天明5年(1785)の梵鐘鋳造の寄金録に、「大同年中(806~10)に行基菩薩が伽藍を建立し、自ら彫ったのが本尊、聖観音像である。」という記載があり、行基作とされていますが、行基は平安から奈良時代に活躍された方ですから、伝承に過ぎないと思われます。現在の本堂は旧観音堂で、旧来の本堂等の諸堂は現在鐘楼堂が建っている丘上に配置されていたそうですが、戦国時代に火災で諸堂すべてを焼失し、本堂は江戸初期の建立です。その観音堂の焼失時、「聖観音は飛行して大杉に避難し焼失を免れた。」と前述の寄金録に書かれています。「空飛ぶ観音様」ですね。
60年に一度しか拝観することができない由緒ある秘仏で、最近では昭和46年(1971)10月18日~19日の2日にわたって開帳され、二千余名の参詣者で盛会を極めたそうです。
次回は2031年で8年後、未だ生きていたら、是非拝観して御利益を賜りたいものです。像の高さは79.5cm、ヒノキ材製で鎌倉時代の作として千葉県有形文化財に指定されています。
妙法蓮華経版木(千葉県指定文化財)
この版木は、昭和三十八年本堂屋根替の時、天井部分から発見されました。一時に五十枚前後の版木が見つかったのは、非常に珍しいことです。このうち、完形のものは三十枚あります。
製作年代は不明ですが、当時の伝えでは、約五百年程前とされています。長い間天井にあったため、全体的に保存は良好で、硬い桜材が用いられています。
法華経は、大乗経典のひとつで、仏出世の本旨を説き、諸々の大乗経典のうちでも最も高遠な妙法を開示した経典です。(柏市教育委員会)
と境内に掲示されています。写真も掲示していただければどのようなものか実感できるのですが、とりあえず教育委員会より写真をお借りしました。
弘誓院で法華経の出版事業が営まれていたということですね。
弘誓院の銀杏樹(柏市指定文化財)
境内の入り口に、大きな銀杏の樹が2樹あり、私が訪れた5月初旬は新緑が鮮やかでした。掲示板には、下記のように書かれていて、柏市(指定当時は沼南町)の文化財に指定されています。
銀杏は二樹あり、本堂南側のものが雄樹で目通り幹囲4.2メートル、西側のものが雌樹で目通り幹囲4.4メートルです。雌樹には乳柱が発生しており、母乳の少ない婦人が、これを削り煎じて飲むと、乳に恵まれるという伝えがあります。(柏市教育委員会)
一般的に地上約1.3メートルの位置で幹周り3メートルが巨樹の目安とされていますが、「長い時をかけて育まれた巨樹は、我が国の自然の象徴的な存在であり、古くから、さまざまないきものたちの住み場所となり、人々の信仰の対象となり、地域のシンボルとなり、また、心のよりどころとなってきました。何百年も、ときには何千年ものあいだ風雪に耐え、生き抜いてきたその存在自体がひとつの歴史であり、私たち人間を含む、共に生きるいきものたちのかけがえのない財産です。(環境省「巨樹・巨木林データベース」より)」とあるように、巨樹は環境保全の対象となっています。
その他の言い伝えなど
間引きの絵馬
本堂に、「間引きの絵馬」が奉納されています。
右下に、生まれたばかりの赤子の口と尻を押さえて殺そうとする女の姿、中央上には同じ構図で恐ろしい形相の鬼が描かれており、背面には「子孫繁昌手引き草」という表題と間引きを戒める内容の古文書の墨書きがされています。
弘化4年(1847)、柳戸村と近郷の村人14人が、西国秩父坂東の百観音参拝の記念に秩父菊水寺の「子返しの絵馬」を参考に奉納したものだそうですが、柳戸は手賀沼の水運や谷津の恩恵を受けた上総でも比較的裕福な地域でしたから、実際に柳戸で飢饉による間引きが行われていたということではなく、秩父の絵馬に触発されての奉納だったのでは?と思われます。
柄杓を持った延命地蔵尊
弘誓院の地蔵菩薩には、次のような伝説があります。
本堂の建物が老朽化し普請の費用算段に檀家衆が苦労していたとき、村人の夢に柄杓を持ったお地蔵さまが「観音様の本堂をなんとしても建て替えたい。必要な木材などを奉納してはくれまいか」と立たれたのです。同じように多くの村人が夢でお地蔵さまに材料を奉納するようにお願いされた結果、普請に必要な材料が境内に山積みとなり無事に本堂の建て替えができたのだそうです。
村人の夢枕に立たれたお地蔵さまは、伝教大師最澄の作と伝わっており、地蔵堂内には陀羅柄杓も祀られています。
また、このお地蔵さまは子どもが大好きで、連夜子供のいる家を回って慈悲を垂れたという伝説も残っています。
熊野神社
本堂の右側に小さな熊野神社があります。弘誓院の山号「逢莱山」が吉野熊野山の異称であることなどから、当社は弘誓院と密接な関係がある鎮守であり、創立も非常に古いと思われます。
鳥居がなければ公民館と間違えそうな拝殿は、昭和52年に再建されたそうです。その拝殿の裏に隠れて見過ごしそうな本殿も昭和52年の改築ですが、その隣には何の手入れもされていないんだろうなと感じられる旧本殿も残っています。
ところで、訪れた時に境内を清掃している管理の方がいらっしゃった(翌日が送り大師なので掃き清めていたのかもしれないですね)ので、少しお話を伺いました。
秋の銀杏の紅葉はそれは見事だろうと想像できますが、銀杏が落葉し始めたら境内の掃除は一切せずに黄色のじゅうたんのまま放置するのだそうです。
銀杏の実もいっぱい落ちるとのことでした。
今回は登らなかった鐘楼への階段からの景観が素晴らしいそうなので、秋にもう一度来訪したいです。
記:中村 恭子