重要文化財、旧吉田家住宅
花野井にある旧吉田家住宅は、平成16年に柏市に遺贈され、平成21年に旧吉田家住宅歴史公園として開園された。平成22年10月に、主屋・書院・長屋門など8棟が国の重要文化財に指定された。
吉田家に伝わる約1600点もの古文書も寄贈され、そこから柏の歴史が明らかになっていくと期待される。
この吉田家の古文書は、代々の当主が整理してきた。文書を大切に保管し、次代に受け継いできたのである。古文書は、駅伝の襷(たすき)のように、時代の様子を伝えていく重要な役割を担っている。吉田家代々の当主は、そういった古文書の価値をわかり、その責任を果たしてこられた。
吉田家の歴史
吉田家の名前が史料に出てくるのは、江戸時代の元和6(1620)年の検地からである。花野井の案内人として吉田家は登場する。主に農業を営みながら、名主として発展したと考えられる。
江戸時代中期頃からは金融や穀物売買等の事業を行っている。天保の飢饉から、小地主や小作人を救済するために始めたとも言われている。
文化2(1805)年から、醤油醸造業も手がけるようになった。醤油醸造業は、大正11年にキッコウマンに譲渡し、廃業するまで続く。大正11年とは、関東大震災の前の年にあたり、損害を受けることなく譲渡したので、幸運な時期だったとも言える。
文政9年(1826)には、関東4か所にある幕府直轄の牧の一つ「小金牧」の牧士(もくし)に任命され、4代にわたり牧の経営に関わった。牧士とは、農民の身でありながら、名字帯刀が許されていた。
レジャーによるまちづくり
ここで、柏のまちづくりを語る上で、重要な人物を紹介したい。レジャーによるまちづくりを目指した吉田甚左衛門である。柏市郷土資料館「ゴルフと競馬でまちおこし」展でも紹介されている。
第一次大戦後、世界的に平和で、景気も良く、大正デモクラシーや大正自由教育など、自由な文化が育まれた大正時代。ところが、昭和に入ると、経済恐慌の波が襲った。政党政治といっても、お互いの足の引っ張り合いで、マスコミはそんな争いを強調していた。政党は財閥と手を結び、金融政策に失敗。農村では、娘を売ってしまわなければならない家も出てきた。そんな中、日本は軍国主義による活路を見出すのである。
しかし、吉田甚左衛門は、農村の柏を、関東の宝塚にしようと考えたのであった。
宝塚劇場を擁する阪急グループの創始者は、小林一三。民間の力で、線路を敷き、まちを作っていった。まったく新しいまちづくりの発想であった。小林一三は、福沢諭吉の弟子で、吉田甚左衛門の先輩にあたる人物である。吉田甚左衛門は、宝塚劇場に行って、食堂のメニューを書き写したメモが発見されている。
まず、現在のハウディモール(柏駅前通商店街)に、柏劇場を作る。そして、現在の豊四季台団地に、競馬場とゴルフ場を作った。
第一回柏競馬は昭和3年5月に三日間で、合計入場者数が7万人、総売上が14万円だった。当時の柏町の人口が7千人程、町の予算が5~6千円。人口の約10倍の入場数に、町の予算の23~28倍の売り上げ。ちなみに、『値段史年表』(朝日新聞社)によると、当時の公務員の初任給は75円であった。つまり、大成功であった。
ゴルフ場のアイディアを出したのは、朝日新聞記者であった杉村楚人冠と言われている。この杉村楚人冠は、吉田甚左衛門とともに手賀沼干拓に反対し、手賀沼を観光資源として活用せよと主張した人物だ。
湖北に淡水魚試験所(現・フィッシングセンター)を誘致し、「日本の公園の父」である東京帝大教授本多静六を手賀沼にお招きし、手賀沼が県立公園に指定される。
吉田甚左衛門の夢
軍国主義の流れの中、競馬場開催は厳しくなる。吉田甚左衛門は、軍馬育成場として競馬場を存続させた。結局は、第二次大戦が始まり、競馬場とゴルフ場は、閉鎖されることになった。
軍国主義の中、文化の力に柏の活路を見出した吉田甚左衛門。阪神競馬場、宝塚劇場、ゴルフ場を手本に、柏の未来を構想していた。残念ながら、その構想は潰えてしまった。
現在、柏では、再び文化の力による、まちづくりの動きを感じる。
美術、音楽、演劇、教育、歴史研究や文学など、様々なジャンルの活動が、老若問わず、まちのなかで行われている。観光地としての手賀沼の魅力も引出そうと官民ともに動き出している。
フィッシングセンターでは、若い起業家がカフェを運営しながら、地域の活性化を図っている。
自分たちの楽しみにとどまらず、柏の未来を想っているように感じられる。吉田甚左衛門の夢は、現在の私たちに脈々と引き継がれている。
記:山下 洋輔