今年(2024年)のNHK大河ドラマは紫式部が主人公の『光る君へ』ですが、それより遡る第61代朱雀天皇の時代の承平5年(935年)2月に関東で平将門が朝廷に対する反乱を起こし、武士や農民を従えて坂東8カ国の独立を目指しました。ちなみに紫式部が活躍したのは、第66代一条天皇の時代で、平将門の乱の約50年後です。
平将門は、天慶3年(940)2月14日に朝廷が送り込んだ将門征伐軍により戦死していますので、その活躍はほんの5年ほどなのですが、千年以上経た今でも根強い人気があり、柏市内にも将門にまつわる伝承は多く存在します。今回は、手賀沼南岸の大井周辺の将門に関わる史跡を巡ってみたいと思います。
福満寺【大井】
桓武天皇の御代(781年-806年)、権大僧都尊慶によって開山された。印西市の泉倉寺の末寺である。中世に大いに寺運興隆したが、戦国時代以降、4回も火事に遭い、多くの寺宝を失っている。
中世期の寺運興隆を反映して、境内には多くの板碑や堂宇を有している。中でも観音堂にある観音菩薩像は聖徳太子の作で、坂巻若狭守の守本尊と伝えられている。4回に及ぶ火災の難を免れていることから「火伏せの観音」の異名を持つ。住職一代ごとの開帳しか許されない秘仏である。
かつての境内は、隣の大井香取神社の境内も含み、広範囲に及んでいた。当寺の山門は鐘楼と一体化した鐘門となっている。当時の住職恵深が秘仏の観音像を背負い、房総三国(安房国・上総国・下総国)を巡錫して寄付を募ったという。(Wikipedia)
下総三十三ヶ所観音霊場14番の他、東葛印旛大師八十八ヶ所霊場7・54番、関東九十一薬師霊場79番、かしわ七福神の布袋尊となっています。
「聖観世音菩薩坐像」が鎮座する観音堂に向かって左手にはたくさんのお堂が並んでいて壮観です。これは四国霊場の写しで准四国八十八ヶ所霊場(太子堂群)と呼ばれています。明治11年に完成したもので、それぞれのお堂の下には四国霊場の砂が納められているそうです。
それらのお堂を眺めるように苔むした細い階段(登るのも大変でしたが、下るのはもっと大変でした。)の上には金毘羅大権現のお堂があります。
金毘羅堂の階段下の横には、江戸時代に水戸藩拝領御鷹場である小金原の水戸藩主専用の宿舎・小金御殿の留守居役をつとめ、苗字帯刀を許されていた日暮玄蕃の墓塔があります。墓石の由緒書きには「幕府が禁じていた不授布施派に入信してしまった玄蕃が福満寺住持豪養に駆け込み、天台宗に改宗して子々孫々福満寺の檀家になった」と書かれています。また、玄蕃は水戸家の隠密として活動したと伝わっています。隠密(スパイ)に反応してしまいます。(笑)
福満寺で最も有名な建物は『大井の晩鐘』で知られる享保14年(1729年)に建てられた鐘楼堂です。鐘楼堂は2層になっていて2階に梵鐘が吊され、中央の穴から出ている撞木の綱を引いて鐘を鳴らすようです。コロナで中止になっていましたが、昨年から除夜の鐘が復活したそうです。
手賀沼八景の一つですから、昔はここから手賀沼が眺望できたのだと思いますが、現在は残念ながら家々の屋根しか見えません。
福満寺には、その他にも『かしわ七福神』の布袋様、6地蔵など数多くのお堂が並んでいます。
福満寺における平将門ゆかりの施設
本堂や金堂に目を奪われ、見過ごしていましそうな本堂の右手に、やや小ぶりな平将門大明神の祠があります。
また、「開運の黄金水」というお手水があり、
当山は平将門ゆかりの寺で、境内は太古の昔から不可思議な大自然のパワーが満ちあふれています。神秘なパワースポットで、この聖地から湧き出る黄金水は身体を癒し、心を癒し、開運を招きます。お参りされたあと恵みの黄金水で竹笹を使い身体を祓い清めてお帰りください。
福満寺・44世・現住・伊原慧純・合掌
と、将門ゆかりの寺であることが記されています。
その他、福満寺の境外には、将門の愛妾を祀った「車の前五輪塔」があり、境内には「車の前」が顔を映したという「鏡の井戸」も現存しているのですが、今年の大雨の被害で「鏡の井戸」は修復が必要な状況で、道標のみで井戸までは行けませんでした。
平将門王城の地【大井】
福満寺から手賀沼沿いに東に行くと「相馬の都 平将門王城通り」という通りがあり、通りの先に「平将門王城の地」という立て看板が立っています。
将門記の王城の地とは此の地なり
将門記に云く王城を下総の国の亭南に建つべしと。この地より眼下手賀沼を望めば大井の津が一望でき北に筑波山を拝し西に富士山を奉拝し関八州を手中にできる。この地こそ王城建設にふさわしい所であります。かつて奈良時代には相馬郡に六郷が置かれました。手賀沼南岸には大井郷と古溝(こみぞ)郷配され、手賀沼北岸には布佐郷、倉麻(そうま)郷、意部(おぶ)郷、余部(あまるべ)郷が置かれました。また同時代には東海道が京の大津から下総国府を通り大井より布施に渡り戸頭に出、常陸の国の石岡まで整備されました。このように都市機能が整備なされた所に将門は相馬の都を建てることに決定しました。
看板のみで何もありませんが、確かに手賀沼、筑波山、富士山が一望できる適所だったと思われます。手賀沼を滋賀(京都)の大津からの琵琶湖に見立ててこの地を選んだとも言われていますが、王城の建設を待たずに将門が討たれてしまったので、遺跡等は残っていないそうです。
将門大明神(将門神社)【岩井】
手賀沼に沿って岩井地区に行くと、平将門を祭神とする将門神社があるというので、引き続き訪れてみました。
ナビでここだろうと当たりをつけた場所に龍光院があり、お寺に向かって左側の道路に面して鳥居が立っているのですが、さて神社はどこに?
龍光寺は平将門に深く所縁のある寺院で、境内右手には将門の三女であった如蔵尼が、将門とその一門の菩提を弔って祀った地蔵堂があります。
「将門の娘でお地蔵様を深く信仰していたお姫様が、病死して地獄に落ちてしまったところをお地蔵様が現世に戻してくれた」という「地獄から戻ったお姫様」というむかし話は、如蔵尼と龍光寺・地蔵堂の話です。
さて、龍光寺本堂にお参りして左を見ると、古いお社が見えました。それが将門神社の社でした。
実は、道路沿いの鳥居から「岩井青年館」の建物の横に細い参道が続いていたのでした。小さな神社ですが、由緒書き、狛犬、手水もあり、基壇には精巧な彫刻が施されていました。
私が行った時に一人の女性が参拝していましたが、地元で親しまれている神社のようです。ちなみに神社の横の道も将門通りと名付けられていました。
柏に縁の深い相馬氏や千葉氏は将門の子孫と言われており、柏には、まだまだ多くの平将門にゆかりの深い名所旧跡があります。機会があればまたご紹介していきたいと思います。
なお、今回巡った場所です。
記:中村 恭子