江戸時代の後期に、下総のこの辺りを歩き回った俳人に小林一茶が居る。そんなこともあってか、柏、野田、流山などには一茶の句碑が多く立てられている。柏でもし一つだけ一茶の句碑を挙げると言われたら、私は、布施弁天向かいのさくら山に建てられている句碑をあげたい。
一茶の著した句文集「株番」に記されている通り、一茶が文化九年(1812年)に布施弁天を訪れた際に見聞きしたいわゆる「東海寺門前」での出来事と、その際に詠んだ句、「米蒔くも罪ぞよ鶏がけ合ふぞよ」がこの碑に刻まれている。
全文を掲げると、次のようになる。
布施弁天には蕉門十哲の一人である宝井其角の句碑「玉椿昼詣でけり布施籠り」もある。
もう一つの私の好きな句碑は、JR柏駅東口近くに在る芭蕉の句碑である。
柏駅東口に近い深町病院の裏手に「幸町弁財天」がある。弁財天自体が新しい小さなお社だが、筆者は毎年正月の初詣には駒木の諏訪神社、布施弁天などと並んでいつもここを訪れる。
以前は気が付かなかったのだが数年前、初詣に立ち寄った際に、高さ40cmほどの黒御影石に「風流のはじめや奥の田植うた はせを」と芭蕉が「おくのほそ道」の白河の関で詠んだとされる句が刻まれている句碑を見つけた。柏にもこんな句碑を建てる方が居られるのだと、大へん嬉しく思った。
芭蕉は、白河の関跡から白河の宿を過ぎ、須賀川の宿駅に等窮という人を訪ね、そこに四、五日滞在した。そこで歌仙を巻く際に、等窮から「白河の関を超える際に、どんな句を詠まれたか」と尋ねられた。芭蕉は、長旅の疲れや周辺の美しさに心を奪われ、また、歌枕ゆかりの古歌、古事への懐旧の情もこみ上げてきて、句作ははかばかしくありませんでしたが・・・」と答えたが、「・・とは言え・・・」として示したのが、この「風流のはじめや奥の田植うた」の句であったと言われている。
「ようやく白河の関を越え、いよいよこれから陸奥の歌枕を経めぐって風流の趣を楽しもうとしているところだが、その風流の手始めは、鄙びた味わいの奥州の田植歌であった・・・」。言ってみれば、芭蕉会心の作とさえ言えよう。
この句碑の裏面には「奥の細道三百年記念・平成元年(1989年)三月」とある。小さいながらも誠に貴重な句碑である。駅から歩いて4、5分のところなので、折あらば是非訪ねてみて頂きたい。
記:宇佐見 房司